2018/10/11

デール記念講演 こころに重荷を負う人とともに に参加して ~おかしくないことの方がおかしい~ 


10月6日土曜日、デール・パストラル・センター主催の英神父様の講演会があり行ってまいりました。

こころに重荷を負う人とともに


タイトルがこのようにストライクゾーンが広かったので、どのような焦点に向かっての講演会になるのだろうと興味がありました。

キリスト教の主催だったこともあったためか、聖書、とくにイエス様が悩みや病を持つ方にどのように関わられたかを深め、神父様ご自身の体験を交えながらの内容となっていました。

現代の日本の安全と繁栄の片隅…にとどまることなくこころに重荷を負う方がいらっしゃることから話ははじまり、その方たちには大きくわけて(簡単にはいかないが話しを進める上であえてとのこと)

  • 対話が可能な方(相談室に通える方)
  • 対話が成立しない方

がいらっしゃること、そして、聖書の中ではその方々がどのように描かれイエス様がどのように対応していらっしゃるかをよく読んでいくことからはじまりました。

対話が可能な方へのアプローチ

例にあがった聖書の箇所はルカによる福音書の12章。
遺産相続についての話です。
「遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」
というこの人は、「対話が可能な人」。

この人に、イエスは例えを用いながら遠回しににこの問題は、言った本人の「貪欲さ」に悩みの原因があると言われ、最終的には「他者に施す」ように促すまでに悩みの根幹を揺さぶりり変えて行くとのことでした。

私たちが遺産相続の問題を相談されたら、まず裁判所に行かれることをお勧めした上で、内面の大きな変革を促していくことが大事だとのことでした。

対話が成立しない方へのアプローチ

例にあげられた聖書の箇所はマルコによる福音書の5章です。
おそらくは精神疾患があり暴力的な人へのイエス様の対応をここから学んでいきました。

イエス様は、おそらく対話が成立しづらいこの人とも対話しようとしています。
神父様は「どんなに問題抱えた方でも、真実を(核心を)見据えていることがほとんどなので、誠実に対話しなければならないことを強調されていました。
どんな人とも魂は響きあうときがあり向き合う必要があると…
人格的な部分とコミュニケーションを取れるかポイントともおっしゃっていました。

レギオンとは?

マルコによる福音書に出てくる墓場に住む男に対してイエス様は対話をしようと試みられます。名を問うイエス様に対して「レギオン、大勢だから」と男は答えます。
このレギオンとは、およそ6000人のローマの一個師団なのだそうです。
そのような数の「悪霊」に取り憑かれていたので、その後の悪霊が乗り移り湖で溺れ死んだ豚たちも2000頭とかなりの数で示されていたのだろうとのことです。

さてここまではレギオンの本来の意味なのですが、
もう一つのレギオンの意味は
「普通であらなければならない数々のこと」
とも言えるとのことでした。
あるいは、ハラスメントや発達障害という言葉に置き換えられるともおっしゃっていました。
私の体験的に思うに、常識、という言葉にかわる時もあると思います。

こころの重荷である「レギオン」は、時には発達障害を理解してこちら側の行動を変化させることで双方のストレスが軽減したり、数々のハラスメントを見据えてその対策をしていくことでハラスメントを受けた人の重荷が少しずつ取り除かれていくばあいもあるとのことでした。

昔息子の調子が悪かった時「アスペルガーの傾向➕」と診断されたのですが、私は診断されたことでホッとしたのを思い出します。
この子はこの子の方法で他者と関わって行くのだ、その方法を私たち周囲の者の方が学ぶのだと思ったら子どもも私も楽になったのか、状況は少しずつ好転していきました。
今でもこだわりが強いところはあるし、心配なところも多々有りますが。

また、神父様ご自身が以前はお体が弱く「人に普通でなくても良いと言っておいて普通の健康が欲しかった」とおっしゃっていて、普通へのこだわりもまたレギオンなのだなと思いました。

私自身振り返れば、うつ病になりどんどん動けなくなり、考えられなくなり、だからこそ「ちゃんと家事をこなさなくちゃ」「なんでもちゃんとやらなきゃ」、という思いが過剰にはたらきはじめますます病が重くなった経験があります。最終的には自分自身に罰を与えないと気が済まなくてリストカットしたり。ちゃんとできない自分に価値を全く見出せなかった記憶ははっきり残っています。

神父さまは「様々な制約やらとりきめやらハラスメントがある中で普通に生きていられるということは、単にものすごく鈍感なのかもしれない」というようなことをおっしゃっていました。

私は普通にちゃんとできなきゃいけないという病は今でもしょっちゅう発病しますが、大事には至らなくなりました。しばしば行き過ぎてしまうけれど、ほどほどでさえあれば、家庭を切り盛りしたり、レッスンのために備えたりと、良い部分もあるのです。そしてそれは個人差があるものなので決して他人に、家族にも強要してはいけないものなのだと学びました。

この福音書の最後の部分は、その地方に住む人がイエスに恐れをなして出て行ってもらうということろで締めくくられていますが、「その地方に住む人々」がレギオンから解放されることを拒んだ結果なのではないかとも感じました。

(余談になりますが、我が家には「マシマシ教」という冗談の宗教がありまして、神は私で教祖は主人、教義内容は「だれでもカミサマよりマシである」というものなのですが、この聖書の中の地方に住む人々は墓場に住んでいた悪霊レギオンに憑りつかれた男を見て「あの男よりマシでよかった」なんて思っていたのかもしれないとも思いました。)

たとえレギオンに憑りつかれていたとしても、コミュニケーションを重ねるうちに響きあうものがある、言葉を超えてある、だからこそ、男は正気になったとお話しくださり、忍耐強いあきらめない心を祈りのうちに神様に大きくしていただく必要性を感じました。

心に重荷を負う人へのリスペクトと洗礼者ヨハネの姿

この講演の中で一番興味深かったのが、神父様がずいぶん以前に読んだという本の中に書かれていたエピソードと、それを読んで神父様の心に重荷を負う人への見方が変えられた話でした。

どなたのご著書だったか忘れたと仰っていましたが、あるお医者様か心理学関係の方が徘徊傾向のある心を病む方の徘徊ルートを追跡調査されたのだそうです。
その結果、その徘徊ルートはかつての修験道で使用されていた道だという事がわかったのだそうです。

それを読んだ神父様はある事に気づきます。かつて修道院で行われていた苦行と、現代の心の病は似ていると。

  • リストカットは鞭打ち
  • 不眠は夜課
  • 拒食症は断食
  • 引きこもりは隠遁生活
すべてに経験がある・・・(;'∀')
自慢できることじゃないんですけど、今の自分の修道院好きってもしかしたら本質的に持っているものだったのか?

自分のことはさておき、
修道院という限られた場所で行われるこの行為は現代から考えれば少し不思議な、おかしな?ことだとは思いますが、基本的には苦行は誰にもできることではない尊敬の対象でした。苦行は「イエスと苦しみを共にする」特別の行為だったからです。

また、神父様は洗礼者ヨハネを文字通りに読み解くと「対話が難しいタイプの人」だったのではないかとまでおっしゃっていました。
ラクダの毛衣を着て、イナゴと野蜜を食べ
荒れ野で叫んでいる・・・
文字通りに考えたら、、、常識をかなり逸脱しているかと思われます。
でも洗礼者ヨハネは弟子もいたし、様々な人が彼のもとに来て洗礼を受けていました。

神父様が途中でおっしゃっていましたが、対話が成立しない人は時々確信をつく発言をされることが多いみたいです。教会の中の問題点とか…
見えているところはきちんと正しく見えている。
洗礼者ヨハネも対話は難しいタイプの人だったとは思いますが、物事を正しく見据える何かを持っていたのでしょう。やはり尊敬の対象でした。

心に重荷を負う人は、その人が知らないうちに「イエス様と十字架を共にしている人」と言えはしないか?と神父様はわたしたちに問うていらっしゃいました。

イエスとともに、重荷を負うあなた、そしてわたし自身とともに


数年前にあるしょうがいをもつきょうだいを持つ方が、
「私のきょうだいは、イエス様と一緒に苦しんでいるのです。きょうだいの苦しみはイエス様の十字架の苦しみなのです。」
とおっしゃっていたのですが、まさにそのことだなと思いました。
そして同時に精神科医の故神谷美恵子氏の「らい者に」という詩も思い出しました。この詩の一節からも、苦しみを負うているかたはそれだけでわたしたちにとってイエス様と苦しみを共にするリスペクトするべき方なのだということを思い知らされます。

何故私たちでなくてあなたが? 
あなたは代って下さったのだ、
代って人としてあらゆるものを奪われ、
地獄の責苦を悩みぬいて下さったのだ

コルカタの聖テレサでしたら、病を持っている方はイエス様ご自身というでしょう。
苦しみの中に神の本質が存在することを私たちは忘れがちです。
それはキリスト教だけでなく古い宗教ではよく言われることです。

私は自分の体験を通して思うのですが・・・
神との本当の出会いは直接的に他者を通して行われることはない気がします。
あるとき、聖書を読んでいて気づいたり、見慣れた風景が頭と心の内側に意味を持って入ってきたり・・・神様がそうなさったとしか思えないような不思議な方法で変えられていくことがほとんどでした。
しかし、本当に孤独であったならば、それに気づくことはなかったのだとも思います。
私の場合は夫が忍耐強く私の回復を待ち「そのままの私」「Beingのわたし」を受け入れ続けてくれたことが「気づきの時」へと導いてくれたのではないかと思います。
重荷を負う人とともにあるというのは、十字架を共に担うよりも十字架のもとに立つ母マリアやマグダレナやクロパの妻マリアのような存在であることが望ましい場合が個人的には多いような気がします。
もしかするとそのように思うのは私が「対話が難しいタイプ」だからかもしれません。苦しみがある方でも対話が可能でしたら語り合うことの中に神を見出すかもしれません・・・聖書の中の遺産の事で悩む人のように。

キリスト教の神はイエスだけではなく、御父と聖霊というペルソナをもつ三位一体の神です。この神は互いに交わり続けている神です。
私たちが神の似姿であるならば、神ご自身と、そして人と交わり与えあってゆくことが本来の姿なのかもしれません。

いま元気で重荷を負う方とともに歩いていらっしゃる方は、ある時その方からエネルギーをいただくこともあるでしょう。あるいは自分に対するちょっときつい気づきを受けることが(たくさんある)かもしれません。神の知恵を求め、内側が枯渇しないように常に神様の息吹で満たされるよう祈り続けなければならないでしょう・・・

いま重荷を負っていらっしゃる方は、いまイエス様とともにいます。理解できないかもしれません。私もそうだったのでわかります。でも、人は裏切ってもイエス様だけは裏切らない。言い過ぎかもしれませんがイエス様に対して暴言を吐いても、ののしっても、私はこんなにみじめでひどいのにと言ってもいいと思う。私はそうでした。そう言いながら数年引きこもっていました。でもそういう正直な言葉をイエス様に投げつけたことでイエス様との交わりが深まった気がします。もうだめと思うときに不思議な援助が与えられたりもしました。神様は見捨てないんだ、という積み重ねで今の私は創られているのかもしれません。

いつの世も世はレギオンで満たされているのでしょう。どうしてそうなのかはわかりません。
でもレギオンに対応できる知恵を神様は用意していて下さいます。
そして、一見マイナスと思われることがマイナスどうしの掛け算となって大きくプラスに転じることがあります。もしかするとこれが「神の栄光の世界」の一部なのかもしれません。

おかしい部分、欠けている部分があるようにみえても、それは神様の世界では完全なのかもしれません。あるいはわたしたちに栄光をあらわすため神様の特別なしかけなのかもしれません。
主の栄光がこの世にあらわれるように、常に感性が柔軟であるように神様に求め続け、み旨に従えるように聖霊に願っていきたいとおもったのでした。


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