2017/12/18

自分を置く

ついつい喋りすぎる自分がいて、気づくとうんざりしてしまい、その自分を受け入れるのに時間を要する時がある。

現代社会は自己アピールの時代で、就活などでも職務経歴書持参でこんなことできます、しましたと言う方がいいのだとか。

アピールするものもないのでそう言われるたびにがっくりくるが、私のおしゃべりはただの自己アピールなのではないかと思いつつある。だとしたら嫌だな…

ハイター片栗粉にせよ、オレンジ精油入りトロトロ石鹸にせよ、効果がかなり高いからつい「これよかったよー」と言いたくなるのだが、それも知識持ってますって言いたいだけなのかもしれない。

それに本当に情報が欲しい人はちゃんと調べ勉強するだろう。
噂や口コミは必要ないはずだ。

自分の黙っていられなさ
というのは、もう一つ
神と対話していない
ということでもあるだろう。

*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*

ねえねえと喋りかける前に
聴くこと。
神の前に自分を置くこと。

*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*.゜。:+*

メサイアのことを息子と話すうちに詩篇22の話になり、メサイアの中での詩篇22は実際にイエスが十字架上で言ったことととらえるには少し配置が前すぎる気がするというのでもう一度22をよく読んだ。

「私を母の胎からとりだし」
は、「胎からあなたに渡されて」
という意味であり
「渡された」は「膝の上に置かれた」の意味であり
「膝の上に置く」は「父がその子を認知する」
という意味なのだそうだ。

詩篇22はもちろんイエスが十字架上でおっしゃった言葉ではあるが
詩篇として私たち自身がいのることもできる。

私はイエスの十字架の死によってすでに御父の膝の上に置かれているのだから
静かにそれを味わえばよいのだ。
だがなかなかそれができずにいる自分で困っている。


――――――――――――――★-☆。.:*:・゜――
Mon site web:Fabien Lafiandra Fan Site
Mon Blog français:lang-8
★☆――――――――――――――――――☆★

0 コメント:

コメントを投稿

 
Minima 4 coloum Blogger Template by Beloon-Online.
Simplicity Edited by Ipiet's Template