2017/10/26

私は何故キリストを信じているのか



ちょっと前になるが五島に巡礼に行ってきた。

写真は私がかれこれ20年くらい行きたいと思い続けていた旧五輪教会です。

本当に素晴らしい教会だったし、教会守のかたも素敵でした!

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五島に行く前も、行った後も、このところずっと考えている事があった。

潜伏キリシタンは何故信仰を保ち続けられたのか?

オラショ、こんちりさん、の祈りが残っていたとしても、キリスト教のどこに絶対捨てられないほどの魅力があったのか?

私に迫害を耐える自信はない…

そう思いつつ、ずっと過ごしていた。

そして、じゃあなぜ私は、平和な時代とはいえ日本ではレアなキリスト教を信仰しているのか?という疑問に思った。あまり深く考えたことがなかった。

私が生まれた時、祖父、叔母、そしてなんと私の両親もクリスチャンだった。叔母は今でも熱心なルター派で、今度の宗教改革500年の記念行事のため長崎に行くという、そんなクリスチャン。

小さい時からキリスト教に接する機会は多かったし、北原怜子さんに憧れて、というのがクリスチャンになった大きな理由だけれど、私にとってキリスト教の何が魅力なのかは考えたことがなかったのだ。

これは、黙想のチャンスでもあった。

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私はあまり永遠の命を欲しいと思っていない。命は辛いと思ってしまう時点でどこか仏教に近い感性の持ち主だと思っている。

聖書の中でも来世の事を思うより「神の国はあなたがたの間にある」という言葉の方がピンときてしまう現世利益好きな私であるのだ…

でも、信仰を保ち続いている理由はそれではない。何だろう…

そんな時、信仰心のカケラもないけど賛美歌を愛する息子がこの賛美歌知ってる?と聞かせるくれた動画があった。




驚いたのがまず一年前に練習していたStar of the county down にメロディがそっくりであること…だったけれど、改めてこの歌詞をみて、

私が信仰を保ってる一番の理由はこれだ、と思った。

疲れた時、重荷を負っている時。
私の中では母の亡くなるまえの半年とその後数年は、精神的に最も参ってしまった時期だった。
とりわけ生前、彼女に借金があった時などは聖書を読みながら神に怒りをぶつけていた。
でも不思議で、「越えられない試練はない」と祈りの中で答えが返ってきて、本当にびっくりするくらい人間的な知恵が与えられ乗り越えられもしたのだった。

母は私を恨み尽くして亡くなり、私は疲れ切った。

でも聖書には書いてある。

「私はあなたを忘れない。たとえ母がその子どもを忘れることがあろうとも」

「あなたは敵の目前で私のために会食を整え、私の頭に油を注ぎ私の盃を満たされる」

「疲れた者、重荷を負う者は私のところへ来なさい。休ませてあげよう。」

…それが私がキリストか離れられない理由だ。

人は裏切ることがある。
自分中心に考える生き物なので、仕方がない。

でも、神さまは違うんだ。
私の思い通りに事が進まなくても、それは私の一番ためになるために与えられている道…だと思う事が人生の中で何度もあった。

パーソナルに神さまと出会うことの大切さ…
とくに苦しみの中で出会う神は
私に圧倒的な力と癒しを与えてくださった。

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苦しみには意味がある、ということを
私はキリストを通して知り
神がその苦しみを打開してくださった経験が
今の信仰に結びついている。

五島は私の信仰の原点を思い出させてくれた。
やはり島には祈りが染み付いているのだと感じたのでもあった。


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