2017/07/11

詩篇とTwitterの似ているところ




先日、知人と教会の祈りについて話しをしていた。
カトリック教会の「聖務日課」と言われるものだ。ほぼほぼ詩篇を使った全世界共通の祈りである。

その方はとても真面目でいらっしゃるし、やはり特別なものを持っておられるのか、日々行う聖務日課について「やっぱり導かれるんですよ、遠回りのようで祈っていた方が導かれるの」とおっしゃっていた。

でも愚か者の私はちょっと違うのだ。
導かれるというよりも……

…詩篇というのは、ただ神様を讃えるだけじゃなくて、大業に嘆いたり、ひどく反省したり、怒りを露わにして神に語りかける文学であり聖典なのである。

私はギーターを読んだ時に、ちょっと詩篇に似てるかも、と思った。アルジュナが「こんなのやだー、死んだ方がマシー!」というようなことを最初の方で言っているけれど、あのような愚痴ぽいことも出てくる。でも最終的に神の偉大さの前に己の果たすべきこと(神の導きとも言える)従順になっていく…
そういえばギーターって「神の詩」でしたよね…(°_°)

ギーターは、アルジュナとクリシュナとのやりとりだけど、詩篇は複数人の無名、有名な人びとの神様への一方的な語りかけになっている。そうして語り祈っているうちに、神への信頼を取り戻して、最後は神様を讃え感謝するような祈りになっている。
ただし全部ではない。
詩篇88なんかひどい。
「暗闇だけが私の仲間」
で終わってる…ほぼ絶望である…
私はそれにしばしば共感しながら祈る。
そう思える時が多いのはよくないと思うのだが一方で、
こんな気持ちになるのは私だけじゃない、状況は違っても、過去の人々も、今日一緒にこの箇所を祈っているひととも私は時空を超えて繋がり神様の身前にいるのだ。どんなに自分が乾いていても、誰かが私の分まで祈りを捧げてくれている…
そんな風に思うのだ。



全員がこうとは限らないと思うけれど、カトリックの人は聖務日課で詩篇を読みながら、それらの詩篇に自分の思いをのせ神に語ってゆく。

Twitterをみているとほとんど自分の意見は呟かず、いいねとシェアだけを続けている人がいる。彼らは他人の意見を通して自分の思想を貫き、読み手に何かを訴えかけている。

あれと詩篇を祈ることは似ているように思うのだが。違うのはTwitterでは自分の思いをのせるのが他人のつぶやきで、それに目を止めるのは同じ人間である私たちフォロワーだっていうことなのだ。

聖書の中で詩篇が信徒だけではなく多くの人に愛されているのはいろんな感情が赤裸々に綴られているからであり、そこに普遍性と苦しみの共有が生まれるからなのではないかと思う。

知っている人が少ない環境でも、同じ思いの人がいると知ると孤独感は薄れてゆく。

詩篇を読み神を思うということは作者との共同の神へのつぶやきであり祈りであると思う。

その小さなつぶやきがTwitterににているなあと思う今日この頃である。


*…*…*…*…*…*…*…*…
余談だけれど、写真の詩篇の本は最後の方に苦しみの時に読んだらよい詩篇や回心、平和を求める時に読んだらいい詩篇がピックアップされている。聖務日課としてではなく詩篇で祈るためだけに作られたような本です。



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