2017/07/15

苦しみにとどまることと変容

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昨日の続きになってしまうが、
こころの時代の映像のなかでティク・ナット・ハン氏が仰っていたことの中に

「変容」

がある。
水が様々に形を変えるように、苦しみもそれにとどまることにより、変容がおこると言うようなことを語っていらしたと思う。

変容は、クリスチャンにとっても親しみの深い言葉だ。とくにカトリックには「主の変容」という祝日があったりする。
ご受難とは関係が深い祝日ではないが、「いつも通りではないこと」というのが起きる可能性を示しているように思う。

かれは苦しみは直視しない(母が子どもを抱くように抱きしめない)からこそ苦しみであり、直視する時に変容が起きるというのであるが、聞いたときは「長い時間がかかれば変容もするわなー」と思ったり、そういえば宇野千代さんが「私はいつでも苦しみに飛び込んでいく」とおっしゃっていたなと思い出し、やはり苦しみに向き合うほうが幸福に生きられるのか?と自問自答していた。

そんなことを考えていた昨夜、こんな言葉を目にした。


そうか、苦しみというものは、真珠になるまえの石にすぎないのか。
苦しみを排斥せずに抱きしめる、包みこむことは幸福への近道なのかもしれない。
苦労は買ってでもしろという言葉には全く賛成できないが、与えられる試練が自らの宝石になることはあるのだと感じたし、そういう私も長い時間をかけて母とのことが良い経験であり記憶になっているとつくづく感じているのである。

しかしながら、彼は暴力等のネガティヴな集団に属することだけは反対する。

個のうちにある苦しみとは向かいあうこと
しかしながら暴力等のネガティヴな集団からは逃れること

これは、生きていくうちの非常によい指針だと思う。
ブラック企業
ブラックバイト
果ては、部活こそがブラックの元凶なのではと言われる時代。
どんな場所でもそこが暴力的なら逃げたほうが良いということだ。

そうして苦しみを受け入れて、人生を味わい生きること。
ものすごくゆっくりな生き方だけれども、本当はこちらのほうが幸福になれるにだろう。

私は、やりたいことが多すぎてそのために不幸になっている気がしないでもない。忙しいことは暴力だ。心を亡くすことなんだから…

周囲にまどわされず、私の道をゆっくり歩みたいと思ったのであった。


2017/07/14

生きて体があるということ

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土曜日に教会の会議から帰ると心の時代で「ティク・ナット・ハン」氏のことを放映していた。

思わず夢中になって見た。

彼の法話の中でとても好きだと思った一節があった。

「人間の体なしにブッダになることはあり得ません。」

数日間心に響いていて、火曜日の教会の祈りはイザヤ38章だったのだがそこには

「生きているものだけがあなたを讃える」

とあった。

私はボンクラな人間だから、悟りが何かはよくわからない。
けれども、自分の全てを使って今この時を味わうということなのだとしたら、それは神の臨在に中で安らいでいる感覚に近いのではなかろうかと感じた。

生きているものだけがあなたを讃えるという言葉に、わたしは神を讃えることに交われない死者に対し少なからず「かわいそう」と思っていたのだが、うまくいえないが、そうではない気がしてきた。

私というペルソナを生きられるのは、私が肉体を持っている間だけだ。
転生があるかないか、わからないし、キリスト教ではあっても煉獄→天国くらいなのだが、その時の体の状態がどうなっているかわからない。

そんなわからないことを考えるより、いまを生きること、五感を全て使って今を味わうこと、神を思い讃えることを生きた方が幸せになれると私は思った。

悟りは、それが幸福だから、求めるのだし…

今を生きることに集中することの大切さをこの数日学ばされたのであった。

 
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